新国立劇場演劇『城塞』04/13-30新国立劇場小劇場

 新国立劇場演劇部門のシリーズ「かさなる視点―日本戯曲の力―」の第1弾『白蟻の巣』(演出:谷賢一)に続く第2弾は、安部公房作『城塞』(演出:上村聡史)です。上演時間は約2時間25分(休憩15分を含む。1幕55分・休憩15分・2幕75分)。第3弾は5月の『マリアの首』(演出:小川絵梨子)です。

 いや~…すごく刺激的でした。昨年、俳優座の『城塞』(演出:眞鍋卓嗣)を観たので比較する楽しみもありました。全然違う!!

 終演後のシアタートークで司会の中井美穂さんがおっしゃっていた通り、「禁治産者(きんちさんしゃ)」の意味は事前に知っておいた方がいいと思います。
*禁治産者:自分の財産を管理することや処分することを禁じられている人のこと。現在の成年被後見人。

 シアタートークのメモがレビュー下方にあります。よかったらお読みください。

 ≪あらすじ≫ 公式サイトより。
とある家の広間。爆音が響く。電燈が尾を引いて消える。どうやら戦時下のようである。「和彦」と呼ばれる男とその父が言い争っていた。父は「和彦」とともに内地に脱出しようとするのだが、「和彦」は母と妹を見捨てるのか、と父を詰る。
しかし、それは「和彦」と呼ばれる男が、父に対して仕掛けた、ある”ごっこ”だった……。
 ≪ここまで≫

 あらすじは俳優座版のレビューでもどうぞ。

 薄汚れたコンクリートの壁に囲まれた部屋の中央奥には、緞帳のような赤いカーテンに覆われた大きな窓があり、下手には出入り口と踊り場。上手には隣の部屋に続くドアがあります。奇妙なのはステージのど真ん中に地下へと続く鉄製と思われる頑丈な扉があること。周囲はコンクリートで固められていて、牢獄への入り口のようです。

 SNSの発達などにより世界中のニュースが手に入り、嘘の判別も昔よりは容易に素早くできるようになったと思います。ただ、スピードが早く量も多いため、結局はフェイク・ニュースがはびこるようになりました。技術の進歩が人類を新たなフェーズに進め、問題もまた新しく生まれているのだと思います。
 昭和30年代の劇作家たちが提示した問題が認識も解決もされないまま、新たな問題が増えている…という印象を持ちました。ただ、人間が作る問題や犯す罪はギリシャ時代から変わらないとも言えます。現在を素直に生きながら、常に過去も参照する。そうやって自分にとってより良い生き方を探ることができればと思います。『城塞』はそのためにじっくり考える、大切な時間になりました。

 ここからネタバレします。一部のセリフは戯曲からの引用です。

・詳しい目のあらすじ

 1945年の外地(朝鮮半島のどこか)でソ連軍の侵攻が迫る。関東軍にすり寄って財を築いた戦争成金の父(辻萬長)は、息子の和彦(山西惇)と2人で、飛行機に乗って日本へと脱出しようとしている。和彦は母と娘を捨てようとしている父を責めるが、父は一向に聞く耳を持たない。和彦は自分ではなく妹の利子(としこ)を乗せろと言うが、父はそれも聞かない。それどころか、利子に色々と詰問し、彼女を服毒自殺に追いやってしまう。やがて暴動や爆発の音が聞こえてきて、飛行機の迎えが来ないことに危機感を強めた父は錯乱状態になり、思考停止してしまう。和彦はいつも同じところで時間を止めてしまう父を批判する。(劇中では父の病気は拒絶症と呼ばれる)

 これらは“ごっこ芝居”であり、父が2か月に1度ぐらい起こす発作を収めるための「儀式」である。舞台は戯曲が書かれた年である1962年の日本。終戦から17年経っている。妻(椿真由美)が利子役を引き受けなくなったので、従僕の八木(たかお鷹)が踊り子(松岡依都美)を見つけてきて、和彦が雇ったところだ。父の認知症は、半裸で歩き回り、トイレにたどり着く前に用を足そうとしてしまうほどに進行している。妻は弁護士の兄と結託し、父を精神病院に入れなければ、和彦を禁治産者にして、会社の株をすべて没収すると脅してきた。和彦は仕方なくその条件を受け入れる。

 精神病院に入る前にきちんと父と話をしたいと思った和彦は、父の発作は八木が作った酒入りの甘い飲み物が原因で起こることを確かめ、もう一度「儀式」をすることにした。再び始まった劇中劇で和彦は、利子が登場する前に、「飛行機の迎えが来たが、自分が追い返した。だから父さんは日本には帰れない」と父に告げる。八木と踊り子にカツラを脱がせたり、暴動の音を鳴らしていたテープレコダーを見せたりして、父が過去に逃げられないように追い詰める。父はふらふらになり「休みたい」と懇願するが、和彦は追い打ちをかけるように現実を突きつけていく。父が朝鮮で不当に儲けた金を元手に事業を拡大し、朝鮮特需を経て、今では外国と契約を結んで兵器産業にもかかわるようになった。「お父さんが要らないくらい、お父さんとそっくりになれた」のだと。

 和彦は踊り子にストリップ・ダンスを踊らせる。踊り子が衣装を脱いで挑発的に踊るごとに、舞台美術の壁が消えていき、窓の外に見えていた夜景も曇りはじめて、やがて冒頭と同様の日の丸が映し出される。その窓もなくなり、現れたのはごつごつとした岩が転がる廃墟。「さあ、お父さん、こわれてしまうんだ! こわれてしまうんだ!」と和彦が絶叫し、終幕。父だけでなく自分にも言い聞かせる、破滅願望が感じられるセリフだった。

・感想

 不穏な音とともに幕が開くと、縄で首を吊ったスーツ姿の男性の遺体が、ぶら下がっていました。奥の窓は赤いカーテンが開いており、窓枠の奥に大きな日の丸の映像が映し出されていました。極東裁判での、検事と被告である軍人のやりとりが音声で流れます。被告は辻萬長さんの声でしたので、「父」の裁判の様子かもしれません。後のトークでわかったのですが、この場面は戯曲のト書きどおりとのこと(最後の被告の台詞は2種類あり、2番目を採用)。甚大な被害と多くの犠牲者を出したのに、戦争責任が正しく問われなかった日本の戦争のイメージが、強烈に提示されました。

 次に驚いたのは、父の部屋のドアが舞台中央の床にあったこと。戯曲では舞台中央奥の壁にあるはずですが、上村さんのアイデアで変更されたそうです(終演後のトークより)。家具や小道具は具象ですが、抽象性が高い空間で、コンクリートの壁には映画館にあるような古びた椅子が数脚並んでいます。奥の赤いカーテンが緞帳に見えることからも、劇中劇を演じて見せるこの作品そのものもまた、劇であることを、視覚的にわかりやすく表していました。劇中劇といえば、俳優の演技が少々大げさというか、戯画化の傾向が見て取れて、誰もが操り人形であるようにも見えてきました。そういえば窓の奥の景色も映像であることがわかるもので、作りものの嘘くささを前面に出しているように思いました。

 日本は1950年の朝鮮戦争特需を経て、1953年に戦前の経済状況まで復興。1956年には経済白書に「もはや戦後ではない」と記述されました。 1962年といえば、高度成長期(1955年から1973年)に入っている時期です。1960年に日米安保条約が締結され、1964年(昭和39年)の東京オリンピックを控えていました。戦争のことは被害も加害も全て見ないようにして、ただ明るく見える未来に向かって進みたいというのが、当時の大半の日本人の望みだったのかもしれません。昭和30年代に、それに警鐘を鳴らす戯曲が生まれたんでしょうね。

 最終的には、奥の上下(かみしも)の壁が開いて消え、中央の窓もなくなって、額縁舞台の上部の機構もあらわになり、照明機材や揺れるランプの仕掛けと、最初に吊り下がっていた遺体も目視できました。中央の窓の奥から廃墟のような空間が露出します。これこそが日本であるという意味だと解釈しました。今年で戦後72年になりますが、年月を積み重ねてもなお、日本は廃墟のままな気がします。現実を見ず、真実を求めずに、嘘の時間にぬるりと浮んだままでいる私たちを思いました。操り人形のような中身のなさ、嘘くささは、私たちのことかもしれません。

 父の所業のひどさは言葉を失うレベルです。朝鮮の関東軍に取り入って電解工場主から7つの電気炉メーカーにのし上がります。どの工場も秘密工場で、出来た火薬原料などは次々に軍事利用されていきました。労働者は給料のいらない「強制徴用の片輪者と八路軍(中国軍)の捕虜」ばかり。その上、儲けたお金で内地(日本)の工場を買い占めて、空襲の少ない山奥に疎開させたという周到振り。和彦曰く「国家を食い物にした」のです。また、「いざという時のために妻と娘には薬を持たせてる」という意味のことも言っていました。その毒で利子は死んだわけです。人を人と思わない、我欲のために家族を殺すことも厭わない、恐ろしい、汚らわしい無法者です。そういう犯罪者が無罪放免になり、戦後も堂々と生きていたことを、私たちは知らなければいけない、そして繰り返してはいけないと思います。とはいえ、そんな父とそっくりな自分を発見した和彦もまた、私たち自身だろうと思います。

 和彦:一体、国家とは、何者なんだ?……食いものにされる宿命に甘んじている、牝牛なのか?……だとすれば、その国家を承認している国民は、そのままおやじのしたいほうだいも、認めてしまったことになるんじゃないか……日本人が、自分を日本人だと名乗ったとたんに、おやじの行為も正当化されるんだ……まったく、上手い話さ……しかし、いくらなんでもちょっと上手すぎやしないかな? それでは、何百万という兵士たちが流した血に対する責任は、一体だれがとってくれるんだ? ぼくの兄貴も、やはりその血を流した兵隊たちの一人だった……

 踊り子の妖艶なストリップ・ダンスは野生的かつ誘惑的で、人間の原始的な衝動や本性を目覚めさせる起爆剤のようでした。それゆえ破壊力もあり、彼女が動くごとに舞台が崩れていくことにリアリティーを感じました。若くて健康的な女性の裸体は太陽の恵みそのものにも見えます。劇世界の全てに対して隅々までその光が当たり、嘘を暴いてしまう、何もかもを見透かしてしまう、そんな神々しさもありました。俳優座版では踊り子が未来への希望や善なるもの象徴で、人間らしさを礼賛しているように思えたのですが、今作は音楽や照明でものものしさ、おどろおどろしさが付加されていたこともあり、そういう素直な解釈はできませんでした。踊り子もまた操り人形、偽物、張りぼてであるとか、過激な化学変化を起こすための触媒に過ぎないとも想像できました。

 俳優の演技は先述のとおり、人物を自然に演じるよりも風刺性を重視しているように感じたので、人間ドラマを味わう方向ではなかったです。戦中・戦後の日本人像を辛辣に描いて、戦争の仕組みや人間社会の構造を立体化する試みとして大変興味深く鑑賞しました。
 和彦とその妻のバトルはお互いが強気で絶対に譲らないという熾烈さが、緻密に組み立てられていると思いました。中央床に設置された、父の部屋へと続く扉があるコンクリートの台が、お立ち台のように使われて、その上で演技をすると会話の最中でも独白に見えたりします。演劇ならではの趣向や遊びを沢山、勇敢に取り入れた演出を楽しみました。

 ≪シアタートーク≫ メモ程度ですので正確性は保証できません。
 登壇者(左から):上村聡史、山西惇、辻萬長、宮田慶子
 司会:中井美穂

 宮田:戦争を早く忘れて前だけを向いていたかった日本人への批判。あの時はオリンピックも控えていた。ていのいい形で忘れ去られようとしているものを描いている。
 上村:昭和30年代の演劇界は、この作品のメタシアター(演劇についての演劇)のような、新しい方法を模索していた時代。

 上村:私は鵜山仁さん、松本祐子さん、木村光一さんの演出助手をしながら演出もしていた。転機になったのは1年間のイギリスとドイツでの留学。

 上村:宮田さんに日本の戯曲をと提案され、日本とは何なのだろう、とまず考えた。自分は昭和54年生まれ。戦後民主主義にちゃんと目を向けたいと思い、1945~1968年の日本の戯曲を読んだ。『棒になった男』をリーディング上演したのが安部公房戯曲との初めての関わりで、その時に著作には全て当たった。安部公房作品は扇田是也さんが演出をしていたが、後期には自身のスタジオを立ち上げて上演していた。オリジナリティが確立されており、手の出しようがない印象もある。『城塞』は公房節もあるが、テーマが比較的ストレートで入る余地がある。また、今やると響くものがあると思った。昭和37年の作品で、表現方法も思想も先を行っている。

 山西:自分は昭和37年生まれ。同じく新国立劇場で出演した別役実さんの『象』も昭和37年の作品。『城塞』も『象』も作者の怒りを感じる。言葉で何かを叩きつけていく感じなどにも、共通点を感じる。

 山西:上村さんの演出は追い込み漁みたい。あまりたくさんはおっしゃらない。俳優を自由に泳がせておいて、クイを打って誘導していく。気づいたらクイに囲まれている…という追い込み漁。クイを建てていくポイントとタイミングが的確。
 辻:演出家には2種類あると思っていて、具体的に指示するタイプと抽象的に助言するタイプ。上村は後者。あと、上村は否定をしない。俳優の自由にさせてくれる。(この作品で父が)床を這いずりまわるのは、自分からやった。父が燕尾服を着ているのは天皇を連想させる意図もあるみたいですよ。上村は天皇の戦争責任も問うている。
 上村:モーニング(燕尾服)はそうですが、父がふんどしを着るのはたかおさんと辻さんのアイデアです(笑)。“美智子妃殿下ブーム”にのっかって、妻(椿真由美)の衣装はああいうデザインになってます。

 上村:演出を始めて10年ぐらいになる。俳優に具体的に「こうやってください」と指示する演出には、面白味を感じなくなってきた。シチュエーションや見せたいものを俳優に提示して、なるたけしばられないように。稽古場で起きた化学反応を採用していこうと思ってます。今回の座組みは劇団出身の方ばかりで風通しが良かった。

 山西:「若い女」(松岡依都美演じるストリッパー)の存在について。俺があいつさえ雇わなければ、こんなことにはならなかったのに(笑)。でも連れてきたのは従僕(たかお鷹)か(笑)。
 辻:「若い女」は残留孤児じゃないかと思ってる。最後に父は彼女に蹂躙され、復讐される。罰がくだっている。

 上村:戦後から昭和37年までには朝鮮特需があって、安保闘争があった。「若い女」に「アカシアの雨がやむとき」(1960年のヒットソング)を歌ってもらってますが、それは台本にはない演出です。最後は韓国の民族音楽を使いました。植民地主義に演出として物申したい気持ちもあり。

 質問:日本では演出家と俳優が主従関係にあるような稽古場があると聞いた。海外ではどうか。
 上村:ドイツは4~5時間の稽古があるとすると、最初に一度シーンを通したら、後の3時間はずっとディスカッション。最後に一度だけ通すと、最初とは全然違うものになって、演出家の指示も全て反映されていた。西洋では演劇学校を卒業してから俳優になるのが一般的なので、システムが身についているのだと思う。
 宮田:日本は昔だと、学者が演出をしたりもした。そうなると俳優が演出家を先生と呼ぶことにもなる。でも今は俳優が自立しているのが基本。
 辻:演出家から「自分を先生と呼ばないでくれ」と言われたことがある。今でも演出家を先生と呼ぶ稽古場はあるけど(自分の経験では、そういったところはない)。

 山西:妹の名前は「としこ」で、漢字だと利子。これは利子(りし)じゃないかと思えてきた。軍と組んで色んな人を傷つけてきた父の罪が、利子(りし)のように膨れ上がっているような印象。

 上村:この1~2週間で世相が恐ろしくなってきて、ますますこの戯曲が時代にフィットするようになってしまった。演劇は観客を感動させることもできるけれど、毒になることもある。自分が志す演劇になったと思う。
 宮田:日本では戯曲が再演されることが少ないんです。日本には素晴らしい戯曲が沢山あります。30代の演出家にそれらに触れてもらうことも、今回の企画意図。もちろんお客さんにも、これからも触れてもらいたい。

 中井:お芝居の後にトークが1時間。皆様と劇場で長い時間を共有しました。それぞれに受け取り方も解釈も異なると思います。お芝居で観たことを実生活でどう生きるのかに反映させるのも、感想を話し合うことも、観劇の醍醐味だと思います。また劇場でお会いしましょう。

“The Fortress”
出演:山西惇、椿真由美、松岡依都美、たかお鷹、辻萬長
脚本:安部公房
演出:上村聡史
美術:乘峯雅寛
照明:沢田祐二
音響:加藤温
衣裳:半田悦子
ヘアメイク:川端富生
映像:栗山聡之
演出助手:五戸真理枝
舞台監督:北条孝
ヘアメイク:高橋幸子
プロンプ:竹内香織
制作助手:重田知子
制作:田中晶子
プロデューサー:三崎力
芸術監督:宮田慶子
主催:新国立劇場
【発売日】2017/01/29
A席:6,480円 B席:3,240円 Z席:1,620円
※就学前のお子様のご同伴・ご入場はご遠慮ください。
http://www.nntt.jac.go.jp/play/performance/151225_007980.html

※クレジットはわかる範囲で載せています(順不同)。間違っている可能性があります。正確な情報は公式サイト等でご確認ください。
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