KAAT神奈川芸術劇場『三文オペラ』が2/10に札幌で大千秋楽を迎えた後の、谷賢一さんのツイートです。私個人の記録のため投稿します。
私はカレーを愛している。同時に蕎麦も愛している。ならば2つを掛け合わせカレー南蛮とすれば最強かと言えばそうとも限らぬ。そこには別の文法があり、最高のカレーと最高の蕎麦を掛け合わせてもクソまずいカレー南蛮ができることもある。カレー南蛮を作る者は断固としてカレー南蛮を作らねばならぬ。
— 谷賢一 (@playnote) 2018年2月13日
大体、最高の蕎麦をカレーにぶち込もうという者は蕎麦の香りをわかっておるまい。最高のカレーを蕎麦の汁にしようとする者も気が触れておる。カレー南蛮はカレーでもなく蕎麦でもなく、ただ「カレー南蛮」という新種の食い物として道を探すべきなのだ。
— 谷賢一 (@playnote) 2018年2月13日
しかし極めたカレー南蛮は、蕎麦ともカレーとも違う極上のB級グルメであることもまた確かである。そういうカレー南蛮を私は何度か食べた。そこには和洋折衷の極みがあり、日本人の生きるたくましさが現れている。神仏習合を例に出すのは大袈裟だが、和魂洋才、実に日本的ではないか。
— 谷賢一 (@playnote) 2018年2月13日
そもそもが日本で食える本当に美味いカレー自体が、日本人向けにカスタマイズされておる。うまいカレーの中には、単なる脱亜入欧を超えた日本の天才たちの精神が宿っておる。確かに近代文学そして近代人としての精神は欧米から生まれたが、単なるコピーとしなかったのが福沢諭吉や夏目漱石の凄さだ。
— 谷賢一 (@playnote) 2018年2月13日
「言葉」は「言の葉」と書く。言葉は記号に過ぎない。意味を運ぶ葉っぱだ。しかしだからこそ文字として読んだときに読み手に無限の広がりが生まれる。そんな言葉を肉声(パロール)として届ける俳優は、言葉が豊かであればあるほど豊かな想念を持たねば言葉を殺してしまう。蕎麦を殺すカレーのように。
— 谷賢一 (@playnote) 2018年2月13日
英語で大根役者のことを「ハムレット・アクター」と言う。実力不足、役者不足なのにハムレットを演りたがる役者を揶揄してそう言うらしい。確かにそうだ。言葉と内面が釣り合ったとき演技は真実味を帯びる。言葉が雄弁な時、俳優の内面はその何倍も芳醇でなければならぬ。でなきゃ棒読みの方がいい。
— 谷賢一 (@playnote) 2018年2月13日