新国立劇場演劇研修所・第7期生の俳優、野坂弘(のさか・ひろむ)さんがご自身のユニット“地平線”を立ち上げ、初めて演出に挑戦されます。⇒修了生の活躍状況(2016年8月)
●NNTD actor’s Project・地平線『贖い(あがない)』
日程:2016年9月22日~24日
会場:アトリエ春風舎
出演:高橋美帆 坂川慶成
作:ジョアンナ・マレースミス 訳:家田淳 演出:野坂弘
⇒公式facebookイベントページ
⇒NNTD actor’s Projectの前回公演のレビュー
メルマガ2016年9月号でもご紹介した通り、野坂さんは俳優、ダンサーとして活動中です。カンパニーデラシネラ『椿姫』にてCoRich舞台芸術まつり!2016春・演技賞を受賞。新国立劇場演劇『あわれ彼女は娼婦』のバーゲット役が大変好評でした(私の知り合いの観劇ファンの間では「アホボン」という愛称で呼ばれたりしていました・笑)。研修時代から野坂さんに注目してきたので、修了後のご活躍を個人的に嬉しく思っています。
「悲劇喜劇」2016年9月号の演劇時評(杉山弘さんと徳永京子さんの対談形式・最終回)で、徳永さんが野坂さんについて言及されていました。該当部分の写真↓です(⇒「わたしの蜷川幸雄作品ベスト3」への参加報告)。
以下に、団体の公式facebookページで連載中の「なぜ、今、演出をするのか?」を転載させていただきます。20代の俳優がなぜ、今、お芝居の演出に初挑戦するのか。その動機について詳しく語られています。クレヨン画はすべて野坂さんによるものです。
※後日、拙サイトにて稽古場レポートを公開予定。
俳優・野坂弘がなぜ、今、演出をするのか?
はじめはホントに単純な問いかけから。
「いい創作の場ってなんだろう?」
成熟した作品は、きっと上質なクリエイティビティが発揮される環境作りから始まるはず。
“環境”も作り手が自ら選べる”手段”だとしたら、そこにこだわない理由はないはず。
じゃあ環境ってなんだろう?
まずは、コミュニケーションから考えてみたい。そう、思いました。
だって、演劇人だから。
ありがたいことに様々な作品に関わらせていただきその中で学んだことは、
誰もが認める素晴らしい作り手の方々ほど、
“コミュニケーション”が相互クリエイティビティに必要不可欠で繊細な”手段”であると強く認識している、ということ。
無頓着になされる無自覚な習慣ではなく、精査され研磨されるべき技術だと深く理解している、ということ。
それは、
個人的な不安の解消に代表されるエゴイスティックなアクションではなく、タイミングや頻度、言葉の端々まで自覚的に選択された働きかけであるべきなのだと、目の当たりにしました。
きっと、俳優や多くのアーティスト達が追い求める
“人間の自立と自由”
“多様性と共存”
といったテーマへのカギは、このあたりに落ちているのではないか。
まずは、そこからはじまります。
人が魅力的にみえる瞬間ってどんな時だろう?
自分の永遠のテーマです。
信じられる瞬間って…、と言い換えられるかもしれません。
その一つの側面に「自由」がある気がします。
人が自由であると信じられる時、それは人の魅力の、ある境地だと腑に落ちることが多々あります。
じゃあ自由を獲得するために、あるいは集団で自由を共有するためには何ができるだろう?
創作の場でのコミュニケーションを通してできることは、まずは「尊重」すること。かな、と。
もっとこっぱずかしく言うと、人を信じること。
そうなのです。
こっぱずかしくてシンプルなことを、笑う人もいるであろう根本的なことを、くそまじめにやってみよう。
そう、思っちゃったのです。
健全な稽古場ってどんな場所だろう?
健全な稽古場。
…健全、ってコトバだけ聞くとなんだか標語みたいだから、
健康、って言い換えてみる。
健康な稽古場。
うん、なんだか血が巡ってきた。
健康、ってコトバのもつ巡るイメージをもっと違うコトバで、
有機的、って言い換えてみる。
有機的な稽古場。
おお、なんだか呼吸しはじめた。生きてきた。
「風通しがいい」というと第三者的な流れの良さがイメージとして強いですが、「有機的だ」というと当事者であるわたしたちの間の、相互的な交流のイメージにフォーカスが当たりやすい気がします。
客観的な風穴を設けるのではなく、
また標語が書かれた看板を掲げるでもなく、
わたしたちによって有機的であることは選択できる。
それは、自由への積極的な一歩な気がします。
そして、それを技術とするコンテキストを共有できる「場」を自分でもつくりたい。
小さくても。
こうして「場」への興味が育ちました。
有機的な交流を愚直に追求する「場」をつくるには、なにが必要なのだろう?
…情熱?
情熱だとよくわからない、というかわかった気になりやすいような。
もっと具体的な行為として捉えたい。
行為だとしたら、それは、
飽くなき問いかけ。
代弁者たる俳優が耳を傾けるべき、戯曲やキャラクター、作家自身がもつ大きな問いかけ。
これを主軸に置く「場」がつくれれば、個人範囲の事に囚われることなく、必要なコミュニケーションを、「自由」へのコミュニケーションを創作のために積み重ねていけるはず。
見下すのではなく、それなりに評価するのでもなく、見上げるべき世界がわたしたちにはあることを、同じ地平で語れる。
そんな普通のことを、フツーにしたい。
よし。
じゃあ、やろう。
「場」、によってプライオリティは変わっていく。
何が大切で、なにが優先されるべきか。
じゃあもし自分が「場」をつくるとしたら、どんなことを大切にしたいだろう。
…ありすぎて困ってしまう。
でもまずは、
大切なことを共有すること、
そしてなにが大切かを互いにいつでも問い直せることは、マストだなと。
それは気分で何かを翻し合うことでは決してない。
けど分かった気になって歩みを止めなかったら、何に出会うためにやっているのか見失ってしまう。
問いかけの、本質を探求したい。
そのために優先されること。
立ち止まって、呼吸すること。
必要なことには必要な時間をかける。
実は忘れがち。
現状を悲観したり、他と比較して第三者的な評価をわざわざ自らに下したりすることに時間を割かない。
向かいたい方向から逆算して具体的な策を講じる。
それを実際のアクションとして行うために時間を費やす。
結果ばかり求めず、わたしたちの営みに必要であるプロセスに真摯に向き合い、その存在を認めること。
なぜならわたしたちが観たいのは結果ではなくプロセスだから。
そしてわたしたちの生活がプロセス”そのもの”だから。
悲観もせず、評価もせず、非難もせず、支配もせず。
同じ地平での探求に不必要なものはスーパー自覚的にゴミ箱にポイっ。
そんな、人が思わず笑っちゃうくらい、あたりまえなことをあたりまえにやる。
それってできるのだろうか?
そういうの、やりたくないですか?
人に聞いてみた。
人が、集まってきた。
文化って何で出来ているのだろう?
これもきっと、ヒトの行為で出来ているのでは。
例えば、
価値を見出すこと。
見出す、というのは、信じる、ということ。
あることについて「これにはこういう価値がある」と信じること、あるいは信じられることをつくることが、文化を創造するってことではないか。
信じられるものをつくる、
これはとても大変なことだと思います。
だから時間をかける。だから身体をありったけ投じる。
俳優ってすごいなぁ、と、つくづく思います。
人間の信じられるモーメントに出会いたい。
多くの人が願う根源的な欲求を、真っ向から満たしていきたい。
わたしたちがご飯を食べる必要があるのと同じように。
貪欲に。正直に。
はー、おなかいっぱい。
ありがとう。
って言っていただけたらどんなに幸せか。
本気で。
芸術を感じる時ってどんな時間だろう?
デザインが見えた時、距離が見えた時、計算が見えた時…。
例えばそれは、
他でもない何かに、確固たる存在や瞬間に出会った時。
ではないかと。
出会い、を体験する時間こそ、わたしたちが創るべきものなのではと。
出会いに必要なのは、まず見つけること。
見つけることに必要なのは、探すこと。
探すことに必要なのは、欲すること。
だからわたしたち俳優は衝動を見つめる。
そう考えると、
もしわたしたちの衝動は全て、何かに出会うためのものだとしたら?
そんな問いも片隅に引っかけながら演劇や世界について向き合えるなぁ、と。
そして衝動はどこから生まれるか。
それはきっと身体。
身体はどこにあるのか。
それはきっと”いま”。
“いま”はどんな地点にあるのか。
…なんだかテツガク的…。
けど実はとてもシンプルなところ。
わたしたちはいつもここから始めます。
「わからない」
何かわかった風なものを提示する時間ではなく、わからないことをなんとかわかろうとする時間にこそ出会いはあるのだと思います。
そこから初めて衝動や、アクションが生まれる。
「わからない」
私たちがとても大切にしている言葉です。
以上。連載が続いたら、その都度追加する予定です(2016/09/13)。
※クレジットはわかる範囲で載せています(順不同)。間違っている可能性があります。正確な情報は公式サイト等でご確認ください。
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